現地人との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:34 UTC 版)
「ビルマでの降伏日本軍人の抑留」の記事における「現地人との交流」の解説
戦争終結後の日本兵と現地人には交流があった。日本兵が収容所から逃げ出しても、現地人に匿ってもらえたケースもある。 収容所に、物々交換や行商に来る現地人(ビルマ人・華僑など)が複数おり、飢えた日本兵の暮らしの向上に役に立った。しかし、収容所によっては「外部の連絡は銃殺」の命令が出される場所もあったし、物々交換を咎められた日本兵は連合国軍の歩哨に銃で殴られることもあった。 作業に駆り出された日本兵や、輸送中に休憩している日本兵は、集落の村人から、煙草や果物、握り飯の差し入れや施しを受けることがあった。 どこの作業に行っても、休んでいるとビルマ人がやって来て話しかけてきたという。 収容所から逃げ出した日本兵を匿う農家や有力者があり、ある寺院は年単位で匿った。 現地人の中には日本軍が嫌いな人もいたが、逆に(英国を倒したことでか)尊敬されたり、親近感を持つ人も少なからずいた。 様々な事情で収容所から離脱したり、捕虜になることを拒否した残留日本兵が存在し、そのままビルマ国籍となった者や、タイなどの近隣国に逃れることができた者もいる。 ビルマ人の中には英国兵や英国領インド兵への報復として、収容所を襲撃したが、その対策に日本兵捕虜が歩哨をさせられることもあった。また当時は、山中に隠れた日本軍残党が英軍輸送部隊を襲撃することがあり、英軍は、危害を恐れて常に日本兵捕虜を盾として伴う状態でもあった。
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