王位継承と諸外国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 19:17 UTC 版)
「レカレド1世」の記事における「王位継承と諸外国との関係」の解説
父レオヴィギルドの死去数週間後、彼は西ゴート貴族の反対なしに王座についた。次いで、メロヴィング朝との深いつながりと、継母ゴイスインタの指示に従い、彼は大使をキルデベルト1世(ブリュンヒルデの子)とブルグント王グントラム(クロタール1世の子)の元へ送り、和平と同盟関係強化を申し入れた。しかしグントラムは大使と面会するのを拒んだ(グントラムは姪イングンデとその夫ヘルメネギルドの非業の死に怒り、西ゴートの治めるセプティマニアへ遠征した経緯があった)。なお、ヘルメネギルドの妻イングンデの妹クロドシンドと婚約していたが、後に解消し、キルペリク1世の娘リグントとの婚約も流れている。また、甥アタナギルド(長兄ヘルメネギルドの息子。合法的な西ゴート王国王位継承者で王位継承権を持つ王族の1人)を人質として有する東ローマ帝国(時の皇帝はマウリキウス)が派遣した軍と交戦しているが、幾つかの都市を奪われている。西ゴート王国が東ローマ帝国に対して完全に優勢になるのはレカレドの娘婿シセブト(在位:612年 - 621年)の時代であり、イベリア半島統一に関してはシセブトの子レカレド2世を倒して王位を簒奪したレカレドの子の1人スィンティラ(在位:621年 - 631年)の治世中に東ローマ勢力をイベリア半島から完全に駆逐したことでようやく達成される。レカレドが東ローマ帝国と交戦してから約30年の歳月が経過している。但し、634年に現在のアルガルヴェ地方に東ローマ帝国の拠点が残っていたとする文献も存在する。この場合、スウィンティラを追い落として王となったレカレドとは血縁は無い可能性が高いと思われるシセナンド(在位:631年 - 636年)の時代以降にイベリア半島の統一は成されたことになる。
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