燕王を自称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
9月、鎮軍左長史封奕らは共に協議し、慕容皝が担っている使命に比べ、与えられている爵位が軽すぎると考えた(慕容皝は名目上は東晋の臣下であり、晋王朝復権のために遼東・遼西地方の回復を命じられていたが、与えられている爵位は遼東公に過ぎなかった。慕容廆の時代にも燕王の位を望んだ事があったが、遠回しに拒絶されていた)。その為、彼らは慕容皝の下へ赴くと、東晋朝廷の許可を待たずに燕王を称するよう勧めた。慕容皝はこれを聞き入れ、即位する前にまず官僚の整備を行い、封奕を国相に、韓寿を司馬に、裴開を奉常に、陽騖を司隷校尉に、王寓を太僕に、李洪を大理に、杜群を納言令に、宋該・劉瞻・石琮を常伯に、皇甫真・陽協を冗騎常侍に、宋晃・平熙・張泓を将軍に、封裕を記室監にそれぞれ任じ、多数を列卿・将帥の地位に取り立てた。また、その他の文武の官僚についても能力に応じて格差をつけて任官を行った。 10月、慕容皝は文徳殿において燕王に即位し、領内の死罪以下に恩赦を下した。また、文昌殿(道教の神仙である文昌帝君を祀る宮殿)を建立し、外出の際には金根車(皇帝の乗る車駕の一種)を六頭の馬で牽引させ、さらに警蹕(声を挙げて人払いをさせる事)を行わせるようになった。多くの史書はこれを前燕の成立としているが、異説も多い(詳細は前燕#建国年についてを参照)。 11月、父の慕容廆を追尊して武宣王に封じ、母の段氏を武宣王后に、夫人の段氏を王后に、世子の慕容儁を王太子に立てた。 これらは全て曹操が魏王に、また司馬昭が晋王に封じられた際に行ったものを踏襲したのだという。
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