烏累若鞮単于
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烏累若鞮単于(呉音:うるにゃくたいぜんう、漢音:おりゅうじゃくていせんう、拼音:Wūlèiruòdīchányú、? - 18年)は、中国新時代の匈奴の単于。呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との子で、烏珠留若鞮単于の異母弟。烏累若鞮[1]単于というのは称号で、姓は攣鞮氏、名は咸(かん)という。
- ^ “若鞮”とは匈奴の言葉で“孝”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号(諡号)に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。〈『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝〉
- ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』匈奴伝下
- ^ 大閼氏は第一夫人である顓渠閼氏の妹にあたる。
- ^ 王昭君も含まれる。
- ^ 左賢王(さけんおう)は匈奴における王位継承第一位。
- ^ 咸の実弟。咸がなぜ、次の単于となる左賢王に任じられなかったについては、史書にその理由が記されていない。
- ^ 元始2年(2年)、王莽によって投降・亡命者に関する四条の制約が決められた。その中に「烏桓人の投降者を受け入れてはならない」、「西域諸国で中国の印綬を受けた者の投降者を受け入れてはならない」とある。
- ^ 右伊秩訾王。
- ^ 従来の漢による印綬には「匈奴単于璽」と刻まれていたが、新の印綬には「新匈奴単于章」と刻まれていた。前の印綬には匈奴の自立性を尊重して“漢”の文字を入れなかったが、新しい印綬には新朝に服属するという意味を込めて、わざわざ“新”の文字を入れ、さらに“璽”から、他の外国と同じ“章”にランクを落とされていた。烏珠留若鞮単于は、上書して元の印を求めていた。
- ^ a b c d e f g h i j 『漢書』王莽伝中
- ^ 『漢書』王莽伝中によれば、匈奴の西域や新への侵攻は始建国2年(10年)にすでに行われ、また、王莽による15人の単于を分立は詔で行うことを図っていたと記されるが、『漢書』匈奴伝下では、翌年の始建国3年(11年)に考えたものと記されている。
- ^ a b c d e f g h i 『漢書』匈奴伝下及び『漢書』王莽伝中
- ^ 将軍を補佐する武将。
- ^ 『漢書』匈奴伝下によれば、始建国3年(11年)のこととされるが、『漢書』王莽伝中では、翌年の始建国4年(12年)に行われたものとする。
- ^ 咸の異母弟にあたる呼韓邪単于の第5閼氏の子。
- ^ 咸が、輿の兄にあたり、母の地位も高いが、咸は、粟置支侯という低い立場に置かれていたため、継承順位は輿が上位であった
- ^ 烏珠留若鞮単于の在時、左賢王が立て続けに死んだので、その号を不祥とし、左賢王を“護于”と改めた。護于は最も尊貴で単于に次ぐ地位とし、その長子にその位を授け、国を継がせようとした。しかし、咸は烏珠留若鞮単于が、咸を貶めて立場が低い左犁汗王・右犁汗王・粟置支侯としていて怨んでいたため、烏累若鞮単于として即位するなり、烏珠留若鞮単于の長子である護于を左屠耆王にして、左賢王を復活させた。
- ^ 昆弥とは烏孫の君主のこと。大昆弥は君主。小昆弥はその後継者にあたる。
- ^ 『王莽―改革者の孤独』』p.154-156
- ^ 20世紀の日本の中国史学者である東晋次は、「もし北辺が従来の和親政策によって安寧な状態であったなら、王莽政権の足かせにならず、礼制国家建設の政策が十全に功を奏しなかったとしても、もう少し長くその政権は存在したし、王莽亡き後も継続した可能性があったように思われる。しかし、実際の歴史展開は、天鳳元年にいったん和親状態に入った匈奴との関係が、またしても王莽の形式的な姿勢への執着から破綻へ逆戻りし、匈奴の北辺侵寇が再開される結果となった。北辺の民衆は、生活が脅かされる状況に陥られることによって、内部に流れ込み、新たな混乱を華北地域にもたらした。そうした状況の中から反新朝、親漢朝の気運が醸成され、民衆は叛乱に起ち上がっていくことになるのである」と論じている『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.250
- ^ かつて厭難将軍にあった。
- ^ 『漢書』「王莽伝中」では王咸を大使とする。
- ^ 『漢書』「王莽伝中」では“帥”とする。
- ^ ただし、 始建国2年(10年)に王莽は、匈奴を“降奴”に、単于を“服于”にと変えている。
- 1 烏累若鞮単于とは
- 2 烏累若鞮単于の概要
- 3 脚注
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