漢化の進展
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1149年に先代の熙宗を殺して帝位についた4代海陵王は宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、都を会寧から燕京に遷都して中央集権国家樹立を目指す改革を進めた。1161年、海陵王は中国の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。金軍は60万と号する大軍であったが、慣れない水戦に苦戦した。その間に各地で契丹族の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても強硬に宋征服を続けたが、海陵王の恐怖政治をきらった有力者たちが東京(遼陽)にいた皇族の烏禄(世宗)を擁立し、金の人々は雪崩を打って烏禄に味方した。海陵王は軍中で殺害され、烏禄が即位した。 世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年に和約を結んだ(乾道の和約(中国語版))。そして契丹族の反乱を速やかに収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大量に消費された財政の再建をめざし、増税や官吏の削減を行った。 同時期に南宋で、こちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれたので、金は繁栄と安定をきわめ(大定の治)、世宗は「小堯舜」と称えられた。一方で、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとする指摘もある。
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