演説まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:11 UTC 版)
斎藤は「粛軍演説」で軍部の政治関与を批判するなど、国民からの注目を浴びるも、警察・軍部から監視され、脅迫状などの攻撃も受けた。「国家総動員法案に関する質問演説」において、国家総動員法の危険性を指摘するも、立憲政友会と立憲民政党の二大政党は斎藤の主張を無視し、全会一致で成立。その後、過労から転倒して打撲し、脳梗塞の疑いで病床に着く。日中戦争の長期化につれ、病床の斎藤の元へ日増しに、「なぜ、斎藤は沈黙するのか」という類の問い合わせの手紙が増加し、国民の声を議会に届けるべく、「国家総動員法反対演説」から2年ぶりの登壇を決意。1939年11月18日原稿の起草に着手、演説の練習を繰り返す(#逸話参照)。 1940年1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立した。その後召集された第75議会の衆議院本会議での、2月2日の議題「国務大臣の演説に対する質疑」における、立憲民政党所属の当時71歳、斎藤隆夫による1時間半に及ぶ午後3時からの「支那事変処理を中心とした質問演説」である。久しぶりの斎藤の演説ということで、傍聴席は満員であった。 議会召集後、民政党院内主任総務俵孫一に質問の旨を通告、町田忠治民政党総裁はもとから斎藤の登壇に反対しており、事前に斎藤を抑えようとしていたが、斎藤はこれを無視。 米内総理大臣、各閣僚の演説の後、民政党小川郷太郎の原稿朗読演説、立憲政友会中島派東郷実の演説の後に斎藤が演壇に立った。
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