満韓交換論の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:38 UTC 版)
義和団の乱に際したロシアの満洲占領はイギリスにも脅威を与えた。当時イギリスは、長江流域に権益を持ちながらも、ボーア戦争の深みに嵌まり、極東に戦力を差し向ける余力を失っていた。そこで、ロシアの南下を牽制する意味合いから日本に接近し、ロシアへの対応を模索していた日本との利害が一致、1902年の日英同盟へと繋がる。 これにより日本は、世界帝国であるイギリスを後ろ盾としてロシアに対抗する方針へと転じ、一時的な譲歩案に過ぎない満韓交換論による日露協商論案の主張は後退した。 1903年8月、日本はロシアに満韓交換論を提示したが、軍事的に勝るロシアはこれを拒否したばかりでなく、エヴゲーニイ・アレクセーエフ極東総督らは、朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。これは事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、当時の日本としてはのめる提案ではなく、翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうこととなった。
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