村山三坊
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村山三坊(むらやまさんぼう)は、富士山興法寺の別当で[1]、村山修験における道者坊(大鏡坊・池西坊・辻之坊)の総称である。
- ^ 『戦国大名武田氏』、216頁
- ^ 宮地(1973)P830
- ^ 富士山村山大宝院(富士市立博物館) (PDF)
- ^ 嘉永5年『旧池西坊富士氏文書』他
- ^ 『戦国遺文今川氏編第2巻』1096号
- ^ 『戦国遺文今川氏編第2巻』1148号
- ^ 『戦国遺文今川氏編第2巻』1412号
- ^ 『戦国遺文今川氏編第3巻』1911号
- ^ a b c 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」,『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要4』,2003-01
- ^ a b c 宮地(1973)P836
- ^ a b c 宮地(1973)P833
- ^ a b c 宮地(1973)P834
- ^ 「オールコックの富士登山」展 (PDF) 、富士宮市公式HP
- ^ 毎日新聞 2010年7月2日 地方版
- ^ この記念碑には大鏡坊に宿泊した旨の文などが刻まれ、ディビット・ウォレン駐日英国大使立会のもと、富士山山開きが行われ記念碑に花が供えられた。
- ^ 『戦国遺文今川氏編第3巻』2098号
- ^ 『戦国遺文今川氏編第1巻』504号
- ^ 『戦国遺文今川氏編第1巻』531号
池西坊
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永禄9年(1560年)8月21日 氏真により村山内辻坊兼帯地を安堵される。 池西坊の初見は、文明10年(1478年)の大日如来像の「池西坊成□」の銘文である。富士山興法寺の中でも大日堂を主務とした。豊臣政権の頃は、豊臣秀吉などの寄進により141石の土地を保持し、徳川幕府時代では徳川家光による所領の安堵で95石1斗7升であった。
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