母の入院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)
少し体調を持ち直し、基次郎は予定通り近藤直人の勧める和歌山の病院に転地療養するつもりであったが、母・ヒサの具合に変調があり取り止めた。母は1930年(昭和5年)2月25日に肺炎のため、天王寺区筆ヶ崎町の大阪赤十字病院に入院することになった。毎日のように看病に行った基次郎自身も再び病状を悪化させ、発熱や呼吸困難で約1週間寝込んだりした。 母の肺炎は落ちつくが今度は腎臓炎となり、基次郎は重篤状態の母を看病するためタクシーで病院に通い、三重県にいる姉・冨士や他の親族にも応援を頼んだ。母の小水を取る世話をしながら、基次郎は『闇の絵巻』の他に、書きかけの『のんきな患者』の構想を練った。 力作は去年の末、淀野の宅へ行つて呼吸困難になつたとき以来 机の上で埃を被つてゐる しかしそれは今住んでゐる町と僕とを書かうとしたもので 出来たら これまでの僕になかつたリアリズムがあつて 面白いものにならうかと思ふのだ、力作だ、 — 「北川冬彦宛ての書簡」(昭和5年3月22日付) 一時は死の危機があったほど重態だった母は回復し、4月24日に無事退院した。この母の入院中、基次郎は本も新聞も読まずに看病のことばかり考え、母が順調に治るように祈っていた。 一昨日から僕は身体が弱つて家へ帰つて静養してゐたのだが、なかなか寝てゐる空などしない。病院は看護婦二人と末弟に委してあるのだが不安でならない。今日も午後 熱がないのでちよつと行つて見たのだが、母も変に淋しいらしく、子供のやうな駄々をこねて泣かれたのには僕も困つた。小説家といふものは観察と同情とが商売だから 看病にかけては普通人の十倍も鋭い。本職の看護婦よりも上だ。それに僕も一生懸命だし、入院して一週間目ほどは知らぬ間に大変腰の低い男になつてゐるのに我ながら驚いた。これで順調に癒つて呉れさへしたら、僕は至上命令的に傑作を書いて 母を喜ばしてやるのだが。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和5年4月11日付) この2か月間の母の入院中に経験した出来事や、自分自身の変化が『のんきな患者』に生かされることになり、基次郎が学生だった頃に母が貰ってきた〈人間の脳味噌の黒焼〉の元となっている断片草稿「薬」もこの年に書かれた。また、この思わぬ入院医療費により銀行預金はなくなり、ますます家計は困窮した。
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