横浜駅前振興による開発の頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 03:27 UTC 版)
「横浜新都市センター」の記事における「横浜駅前振興による開発の頓挫」の解説
「横浜スカイビル」も参照 1960年代の横浜駅東口は、3代目横浜駅の開業当初からの表玄関であったことから権利関係が複雑な土地や公有地が多く、自然発生的な再開発が期待できなかった。その一方、西口は1950年代から相模鉄道によって開発が進められ、1960年代には一大繁華街として発展しており、東口は見劣りするようになっていた。そこで民間企業の横浜駅前振興株式会社(現 株式会社横浜スカイビル)によって、横浜駅東口の出島地区・東口地下街の開発が開始された。1968年(昭和43年)3月には初代スカイビルの落成、1967年(昭和42年)7月にはスカイプールの開業にこぎつけたものの業績が伸び悩み、また横浜市警察庁舎跡地(現 横浜スカイビル)・横浜市営バス西営業所跡地(のちのスカイプール用地、現 横浜新都市ビル)の払い下げ価格が予想以上に嵩んだり、横浜市長が革新派の飛鳥田一雄に交代したことよる横浜駅東口総合計画の見直しなどの影響もあり、出島地区の北側・東口地下街の開発が困難になってしまった。
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