横浜高等商業学校
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横浜高等商業学校(よこはまこうとうしょうぎょうがっこう)は、1923年(大正12年)12月に設立された旧制専門学校であり、略称は横浜高商( - こうしょう)である。
- ^ 設立時の名称は「高等商業学校」。1902年に東京高等商業学校と改称し、1920年に大学令による(旧制)東京商科大学に昇格した。
- ^ その後、同市には1928年に公立学校として横浜市立横浜商業学校 (Y校) 専修科を母体とする横浜市立横浜商業専門学校(Y専、第二次世界大戦中に横浜市立経済専門学校と改称)、翌1929年には私立学校として横浜専門学校も設立されるなど高等教育機関(旧制専門学校)も増設されたが、旧制大学は設置されるに至らなかった。
- ^ 橘木俊詔『三商大』p.162。
- ^ 同上、p.164。これに対して先行の神戸・長崎・小樽の各高商では商学関係の実践科目に重点が置かれていた。
- ^ 同上、p.163、165-166。
- ^ それぞれ旧制高等学校・旧制専門学校に相当する附設課程で、旧制中等学校の卒業生を対象とする。
- ^ 『横浜高等商業学校二十年史』 62頁
- ^ これに対し公立の横浜市立経専は、同じく公立(横浜市立)の(旧制)横浜医大とともに公立大学、私立の横浜専門学校は単独昇格による私立大学の発足をめざした。この際、3者が同じ「横浜大学」の名称を申請して競合したため、協議によりそれぞれ横浜国立大学・横浜市立大学・神奈川大学の名称で申請し直した。
- ^ 1931年の日米野球は全17戦実施され全米選抜チームが全勝した。東大を除く東京六大学各校の現役チームやOBを含めたオールチーム、全日本チームらと数試合、そして西村幸生投手らがいた関西大、大岡虎雄がいた八幡製鉄、苅田久徳や久慈次郎の全横浜、宇佐美一夫捕手らがいた横浜高商とそれぞれ1試合ずつ対戦した。全米選抜はルー・ゲーリッグやレフティ・グローブ投手、ミッキー・カクレーン、アル・シモンズ、ラビット・モランビル、フランキー・フリッシュ、ウィリー・カム、レフティ・オドールらメジャーリーガーを中心に2名の2A選手を加えたチームだったが、ゲーリッグは6戦目以降は不出場。なお、翌1932年に文部省より野球統制令の訓令が出され、学生野球の興行化に歯止めがかけられ学生とプロとの試合が禁じられた。
- ^ 『官報』第5664号、昭和20年11月28日。
- 1 横浜高等商業学校とは
- 2 横浜高等商業学校の概要
- 3 学生生活
- 4 脚注
固有名詞の分類
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