林と羅振玉
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1910年(明治43年)初頭、林は甲骨に関する論文を北京の羅振玉に郵送して教えを求めた。当時、京師大学堂農科大学の監督の職にあった羅振玉は金文や碑文の研究家として有名であり、『鉄雲蔵亀』にも序文を書いている。林の論文を読んだ羅振玉はその該博な論証に驚嘆した。当時の羅振玉の甲骨文字に対する見解は、「夏代か殷代のものであって、周代のものではいことは確かだ。」 という曖昧なものであり、林の論文によって自身の研究を補正する必要性を感じ、それと同時に林の論文にも未解決の問題がたくさんあることを知った。そして羅振玉は自身が所蔵している甲骨文字を改めて検討し、甲骨文中に殷帝王の名10余を発見するとともに甲骨の出土地が殷墟であることをつきとめ、1910年(明治43年)、『殷商貞卜文字考』1巻を出版した。 『殷商貞卜文字考』を書いて甲骨への興味も一段と高まった羅振玉は、1911年(明治44年)、弟の振常らを安陽に派遣して出土地を確かめるとともに、さらに多くの甲骨を入手し、1914年(大正3年)に『殷商貞卜文字考』を増補して『殷虚書契考釈』を刊行した。このようにして羅振玉は甲骨文解読の基礎資料の集成に成功し、以後の甲骨学者の研究はすべてこの『殷虚書契考釈』を出発点として始めるようになったのである。『殷商貞卜文字考』の冒頭に羅振玉は、「およそ林君の未だ達せざるところ、ここに至りて、すなわち一々分析明白となりぬ。すなわち、すみやかに写して林君に寄せ、かつはもって当世考古の士におくる。」 と述べているように、これらの書物の刊行に一つの示唆を与えた林の功績は大きい。
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