東海大一→横浜(一次)→横浜商指導時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 15:16 UTC 版)
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現役引退後は横浜市に戻り、親の水道設備の下請けの職に就いていたが、1973年に指導者として招聘され、静岡の東海大一(現:東海大静岡翔洋)硬式野球部コーチを仕事兼務で限定された曜日のみではあったものの3年間務める。1976年には同校を初の春夏甲子園出場まで導いた。 1977年には同級生の渡辺元(現:渡辺元智)に要請され母校の横浜で自身初となる硬式野球部監督に就任。この当時、渡辺は教職免許取得の為、関東学院大学の夜間部に通っており、指導が休日しか出来ない日々が続いていた。小倉が監督となった事で渡辺が監督から部長となり、初めて二人で指導をするが、メンバー起用の問題により部内が紛糾したため、1年で辞任し横浜を去った。 監督辞任後すぐにY校で知られる横浜商業の監督であった古屋文雄に「甲子園に行きたかったら俺を雇え」と電話で売り込み、同校の硬式野球部コーチを12年間務める。就任中、横浜商業は5回夏の甲子園を経験。その中の第65回全国高等学校野球選手権大会では決勝で大阪のPL学園に敗れたものの見事、準優勝を飾っている。
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