札差の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 09:19 UTC 版)
天保の改革の後も、旗本・御家人の札差に対する借金は増え続けた。そんな折、天保の無利子年賦令から20年後の文久2年(1862年)冬、旗本・御家人の未償還の債務を、年利10パーセントから7パーセントに下げ、返済は金額に応じて10年・20年と年賦にする安利(やすり)・年賦済み仕法が発布された。ただし、この当時、借財の増えた旗本・御家人からは、ある限度以上の償還はほとんど行われにくくなっていたことから札差の動揺もさほどではなく、逆に旗本らの中にはかえって負担が増大する者もあった。 安利年賦返済令から5年後の慶応3年(1867年)の大政奉還とそれに続く戊辰戦争を経て徳川幕府は倒れた。廃藩置県後の秩禄処分により、旗本・御家人は家禄を失い、新政府は幕臣の負債は引き受けなかった。札差は貸し倒れとなり、顧客を失って廃業した。 明治元年(1868年)12月、浅草蔵前の一帯は大火に襲われ、札差の家々はこれを機にほとんど没落してしまったという。維新以後、近代的な資本として生まれ変わった店は極めて少なく、またかつての札差のような繁栄も見られなかった。
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