最後の戦闘とイギリスへの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/01 15:22 UTC 版)
「ジョン・マーレイ (第4代ダンモア伯爵)」の記事における「最後の戦闘とイギリスへの帰還」の解説
1776年1月1日、ダンモアはバージニアのノーフォークの水際にある建物を焼くように命じた。ノーフォークからは愛国者の部隊がダンモアの艦船に砲撃を仕掛けていた。このことで反乱者に全市を焼く口実を与えたために、ダンモアは新たな罠に嵌った。ダンモアの支持者達がバージニアに戻ることができないと明らかになったとき、ダンモアはニューヨークに撤退した。避難民を乗せた艦船の幾らかは南に、大半はフロリダに向ったが、黒人の乗船者が再度奴隷に売られたという噂は当時の反イギリス勢力によって流された宣伝に基づいていると考えられている。ダンモアはバージニアの植民地を取り返せないと認識すると、1776年7月にイギリスに戻った。アメリカ合衆国の独立が認められた1783年まではバージニア植民地総督の位に在り続けた。 1787年から1796年、ダンモアはバハマ植民地の総督を務めた。ダンモアは1809年3月に死去し、伯爵位は長男のジョージ・マーレイが継いだ。伯爵夫人シャーロットは1818年に死んだ。
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