新聞記者から教団幹部へ
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帰国後は産経新聞横浜支局に新聞記者として勤務する。1979年、当時スチュワーデスをしていた小野純子と結婚する。その後、新聞社を辞して生長の家の教団に奉職し、主に広報・出版・総合企画部門で手腕を振るう。その後、教団の理事の一人に名を連ねることとなった。 雅宣が理事である間に、教団では宗教的な伝道を重視する「教団派」(本部派)と、安東巌や椛島有三ら政治活動を重視する日本青年協議会系の「飛田給派」との対立が激しくなっており、一時期は教団派の理事長が事実上更迭される事態も起きていたが、優生保護法改正に自民党が消極的なことから教団理事会では自民党への不信感が高まり、1983年には生長の家政治連合は活動を停止する。雅宣はこの時から教団派のメンバーであったとみられ、飛田給派が後に生長の家本流運動を結成することとなった。 1985年6月17日に雅春が死去すると、同年11月22日に父の清超が第2代総裁に就任。その後、教団の副理事長となる。
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