数人の合作説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:23 UTC 版)
「仏足石落慶の日などに諸人が行道の諷誦に用いた歌を、後に石に彫ったのであろうから、筆者などを強いて考えるべきものではない。(趣意)」(山川正宣) 「2番歌は、『拾遺集』によれば光明皇后の歌となる。皇后は752年(天平勝宝4年)に崩じたので、年代的には矛盾しないであろうが、確証はない。仏足石落慶の前後に、人々の詠作したものであるまいか。」(久曾神昇) 「作者は文室浄三と言われているが、これは個人に特定することは妥当ではなく、行道に諷誦した歌を刻したと思われるので、不特定多数の人々の作と考えるべきである。仏典に基く言葉が多いところから、作者は僧侶が大部分であったかも知れない。」(大井重二郎) 「仮名用法・語彙・変字法の有無・歌想内容の違いの諸要素から、次のような結論に至った。 1・2番歌…某人の序歌 3 - 14番歌…仏足石発願者の詠歌 15 - 17番歌…第三者某の詠歌 18 - 20番歌…別人の詠歌 この仏足跡歌碑歌における“仏足石発願者”が文室浄三であるかどうか明らかでないが、浄三の人物像をここに重ねてもおかしくはない。」(廣岡義隆)
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