提督として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:26 UTC 版)
「フォルミオン (将軍)」の記事における「提督として」の解説
同年の冬にフォルミオンは20隻の艦隊と共にペロポネソス同盟の艦船のコリントス湾の出入りを封鎖する任を受け、ナウパクトスに基地を置いた。一方、翌紀元前429年の夏、ペロポネソス同盟側はアテナイの同盟国であるザキュントスやケファレニアをアテナイから切り離し、またケルキュラとの間に楔を打ち込もうとして、アテナイとそれらの同盟国との間に横たわるアカルナニアの地を勢力下に置くために軍を送った。フォルミオンはアカルナニア人からスパルタのこの計画を知らされたが、ナウパクトスを無防備にするのを恐れた彼は援軍を送らず、待機し続けた。 陸軍と連動したペロポネソス艦隊47隻が夜間にコリントス湾から外洋へ出てアカルナニアに向おうと航行し始めると、フォルミオンは20隻の艦隊を率いてそれに挑んだ。円陣を組んだ敵の周りをアテナイ艦隊は回り、フォルミオンは明け方に吹く風を待った。風が吹くと密集したペロポネソス艦隊は風に煽られて身動きがとれずに隊列を崩したり、互いに衝突し始めた。そこでフォルミオンは全船に総攻撃を命じ、1隻を沈め、12隻を拿捕し、勝利を得た(リオンの海戦)。 ペロポネソス側は77隻の艦隊を集めてフォルミオンに再び挑んできた。一時は危うい時があったものの、彼は再び、今度は四倍ほどの敵に対して勝利を得た(ナウパクトスの海戦)。この驚くべき勝利によってアテナイ側はナウパクトスとコリントス湾の制海権を守り、同時にアテナイとその北西の同盟国との間に楔を打ち込むというスパルタの試みは最終的な失敗に終わった。 同年の冬にフォルミオンは自らと共に二度の海戦を戦った艦隊と共にアカルナニアのアスタコス(英語版)に派遣されてアカルナニアから反アテナイの危険人物を追放した。この任を果たすと彼はナウパクトスへと戻り、そして紀元前428年の春にアテナイに帰港した。これ以降フォルミオンは歴史の表舞台には立っていない。
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