抗日パルチザン
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抗日パルチザン(こうにちパルチザン)とは、かつて日本の支配地域(植民地や準植民地、占領地等)で行われた主に共産党系の非正規軍の闘争、パルチザン活動、中国の東北地方における朝鮮独立運動を指す。朝鮮民主主義人民共和国の建国神話における名目上の正当性の根拠とされた。
- ^ 外務省 『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p773
- ^ 溝口白羊編『国辱記』日本評論社出版部、大正9年。事件で領事館に火をかけられて自害した石田領事の遺児・石田芳子は、父母と幼い弟妹を失い、『敵を討って下さい』という詩を発表しているが、その中に次のくだりがある。「まあ何といふむごいことをするのでせう にくらしい狼の様なパルチザン」
- ^ 槇村浩『間島パルチザンの歌ー槇村浩詩集ー』新日本出版社、1976年、32-44頁。「……北鮮の曠野に萠える……いまおれの棲むのは第二のロシア 民族の壇(かき)を撤したソヴィエート 聞け!銃を手に 深夜結氷を超えた海蘭(ハイラン)の河瀬の音に 密林に夜襲の声を谺した汪清(ワンシン)の樹々のひとつひとつに 血ぬられた苦難と建設の譚(ものがたり)を!……おれたちは間島のパルチザン 身をもってソヴェートを護る鉄の腕 生死を赤旗とともにする決死隊 いま長白の嶺を越えて 革命の進軍歌を全世界に響かせる ——海を隔ててわれら腕結びゆく ―—いざ戦わんいざ、奮い立ていざ ―—ああインターナショナルわれらがもの」[1]
- ^ 徐大粛『金日成 思想と政治体制』林茂訳、御茶の水書房、1992年、42-48頁。
- ^ *萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』文藝春秋、1993年、46-49頁。金日成のロシア語通訳を務めていた高麗人の兪成哲(ユ・ソンチョル)は、現場でそういった声を聞いている
- ^ 李命英『金日成は四人いた』成甲書房、2000年、20-24頁より。
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、549-563頁において、佐々木春隆は「李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという金一成(キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天が、生まれた年がともに1888年(明治21年)、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれた伝説ではないか」としている。
- ^ 金賛汀『パルチザン挽歌 金日成神話の崩壊』御茶の水書房、1992年、335-342頁。解放後の北朝鮮に帰国当初、金日成は金成柱と名乗っていたという北朝鮮占領ソ連軍所属の高麗人・鄭律の証言がある
- ^ 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』より引用
- 1 抗日パルチザンとは
- 2 抗日パルチザンの概要
- 3 北朝鮮の満洲派パルチザン
抗日パルチザン
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朝鮮北部から満洲国にかけては、抗日パルチザンが活動した。抗日パルチザンはソビエト連邦の赤軍や中国の中華民国軍と協力する局面もあり、ロシア内戦では赤軍・抗日パルチザン・中華民国海軍がニコラエフスクを破壊する尼港事件も起きた。金日成が中国共産党の指導する東北抗日聯軍に参加して抗日パルチザン運動を展開し、ソ連の第88特別旅団に編入されて帰国する。大戦後に金日成は朝鮮民主主義人民共和国を建国する。
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