戦闘後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/21 10:18 UTC 版)
「ウェサン島の海戦 (1781年)」の記事における「戦闘後の動向」の解説
ケンペンフェルトの戦力は19隻ものフランス護衛艦隊を攻撃するには不十分だった。しかしイギリスにとって幸いなことに、輸送船団はイギリス艦隊を避けるためにあえて北大西洋の嵐のシーズンに出帆するリスクを冒しており、そのため海戦後まもなく強風の中で分散し、大部分が港に戻らざるを得なくなった。西インド諸島を目ざした護送船団のうち、わずか戦列艦2隻と輸送船5隻のみが目的地に到着し、4月のセインツの海戦に間に合うことができた。海戦のニュースがイギリスにとどいたとき、議会の野党は輸送船団に対してそのようなわずかな戦力しか送らなかったことをとがめ、海軍の運営について公式な調査を要求した。これに続く野党による一連の政府攻撃により、ノース卿の内閣は1782年3月20日に倒れるに至った。そしてそれはアメリカ独立戦争の終結をもたらす1783年のパリ条約への道を切り開くことにもなった。
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