戦後・映宝興行の経営とは? わかりやすく解説

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戦後・映宝興行の経営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 05:25 UTC 版)

岸和田東宝映画劇場」の記事における「戦後・映宝興行の経営」の解説

戦後いち早く復興しており、1950年昭和25年)に発行された『映画年鑑 1950』には、同市内に、松竹二番館である第二電気館(のちの岸和田電気館北町74番地経営岩崎治良)、東宝大映二番館である春陽館(春木泉町1560番地経営夜明藤一)、東宝三番館と洋画上映した山村劇場北町74番地経営河合栄)、セントラル映画社系の岸和田セントラル(のちの岸和田東宝セントラル劇場宮本町125番地経営山口藤次郎)、大映三番館である岸和田館堺町1919番地経営山口藤次郎)、そして同館の6館が記載されている。同書によれば当時の同館の経営は、中平邦顕が社長務める映宝興が行っており、観客定員数は322名、興行系統東宝三番館でありヨーロッパ映画上映した。映宝興行は、戦時中1943年昭和18年3月にのちに三和興行日本アート・シアター・ギルド等の社長となる井関種雄(1901年 - 1987年)が創立し大阪市北区茶屋町本社置いた興行会社であり、戦後同社社長となった中平邦顕が吹田東宝映画劇場尼崎東宝劇場、あるいは大阪名画座はじめとして高知市高知モデル劇場(のちの高知日活モデル劇場)にまで伸ばした興行チェーン確立した企業である。当時支配人である三好定男は、同社本社営業部にも籍を置いた人物である。 1957年昭和32年4月24日には、鍛治屋町繁華街岸和田大映(のちに移転して岸和田大劇経営同和興行)が開館し大映二番館として興行開始している。これによって、山直劇場岡山町127番地経営西川輝男)、吉野倶楽部下野町517番地経営山路美晴)、同年岸和田東映劇場改称した山村劇場含め、同市内映画館合計9館の時代迎える。1959年昭和34年)には、同館の経営照屋潔の個人経営変わり岸和田東洋劇場改称興行系統洋画系に変わった。同市内東宝興行については、第二電気館経営岩崎治良)が引き継いだ1961年昭和36年)には洋画系のまま、岸和田東宝映画劇場に名称を戻している。 市内9館体制ピーク短く1961年昭和36年)には山直劇場閉館し1962年昭和37年)には春陽館(春木泉町1560番地経営向井克巳)、吉野倶楽部下野町517番地経営楠原エイ)、そして同館の4館が閉館した。同館閉館後の同市内映画館はわずか5館に減った。同市内東宝興行については、1966年昭和41年)には、岸和田セントラル岸和田東宝セントラル劇場改称し東宝封切館変わり岸和田電気館からこれ継承したGoogle ストリートビューによれば2009年平成21年7月現在の館跡地は住宅地である。

※この「戦後・映宝興行の経営」の解説は、「岸和田東宝映画劇場」の解説の一部です。
「戦後・映宝興行の経営」を含む「岸和田東宝映画劇場」の記事については、「岸和田東宝映画劇場」の概要を参照ください。

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