慈氏院の時代 前半 学問に対する熱意旺盛
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「柴山全慶」の記事における「慈氏院の時代 前半 学問に対する熱意旺盛」の解説
河野霧海の特命で、荒廃していた南禅寺塔頭慈氏院を復興するため、1923年(大正12年)に慈氏院の住職となった。慈氏院は五山文学の巨峰である義堂周信の寺である。慈氏とは弥勒菩薩のことである。 同院の復興をしつつ南禅僧堂へ通参し、南針軒の法嗣となった。それから1948年(昭和23年)南禅僧堂師家になるまでの25年間はこの慈氏院時代である。 その間、学問にも情熱を注ぎ、仏教学以外にも、英語、エスペラント語等について学び、大学の聴講生として通い勉学にも励んだ(柴山全慶老師 略年譜 p.9)。 エスペラント運動の平和思想に共鳴し、有能な若きエスペランティストとなった柴山全慶は1930年(昭和5年)にエスペラント語による『禅の十牛図』を翻訳出版する。発行人は緒方宗博、発行所は仏化社。時に35歳の時であり、いかに真剣に仏教エスペラント運動に関わっていた証ともいえる。 1931年10月には日本仏教徒エスペランチスト連盟が(JBLE)創立され、発起人の一人であった全慶がその初代理事長に就任した。
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