後期:第四共和政・ドゴール体制のもとでとは? わかりやすく解説

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後期:第四共和政・ドゴール体制のもとで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 04:13 UTC 版)

フランス社会党 (SFIO)」の記事における「後期:第四共和政・ドゴール体制のもとで」の解説

ナチス・ドイツからの解放後1945年行われた総選挙SFIO142議席獲得し人民共和運動MRP / Mouvement Républicain Populaire)・共産党に次ぐ第三党地位占めフランス共和国臨時政府上記3党による連立政権実現するとともに第四共和国憲法制定大きな役割果たした。しかし第四共和政樹立後の1947年発足したSFIOのラマディエ政権ゼネストめぐって共産党対立し同党の閣僚罷免続いて大学問題めぐってMRPとも決裂したため、3党体制崩壊しラマディエ政権同年のうちに倒閣追い込まれた。 その後SFIO急進党民主社会主義抗戦同盟(UDSR / Union Démocratique et Socialiste de la Résistance)・社会共和派CNRS / Centre National des Républicains Sociaux)と「共和戦線」(RF / Republican Front)を結成議会内の第三勢力」を形成し存在感保った。これを背景1956年1月ギー・モレ政権成立第四共和政では最も安定した社会党政権となった(~1957年5月)。しかし同政権スエズ戦争アルジェリア独立戦争直面して失点重ね、これらの問題めぐって党内にも深刻な対立生じたアルジェでの反乱きっかけ政界に復帰したド=ゴール1958年首班として組閣すると、翌1959年SFIO国務相ギー・モレ入閣させ、第五共和国憲法制定にも協力したが、このような主流派政策不満なデプルー(Édouard Depreux)らは離党し独立社会党PSA / Parti Socialiste Autonome)を結成した。しかしSFIO自体第五共和政発足後急速にド=ゴール傾き下野急進党などとともに民主社会左翼連盟(FGDS / Fédération de la gauche démocrate et socialiste)を結成、FGDSは1965年大統領選挙共産党とともにフランソワ・ミッテラン候補共和制度協議会CIR / Convention des Institutions Républicaines))を推し当選には至らなかったものの第2回投票当選者ド=ゴール得票率55に対して45%を獲得する善戦果たした。そして1967年総選挙では社共提携功を奏してSFIO116名の議席有する野党第一党地位占めた

※この「後期:第四共和政・ドゴール体制のもとで」の解説は、「フランス社会党 (SFIO)」の解説の一部です。
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