当時の国際社会の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 06:32 UTC 版)
「中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「当時の国際社会の動向」の解説
1949年の時点でチベットおよび西側の報道では、この併合を一般に侵略と呼んでいた。例えば亡命チベット人のペマ・ギャルポは「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する。一方、中華人民共和国内では、この事件を、「チベットの平和的な解放」と呼んでいる。 この中華人民共和国によるチベット併合の動きに、アメリカ政府ではイギリスの代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による併合に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。 しかしアメリカは、朝鮮半島における状況が緊迫していたこともあり、自国の利権にあまり関係のない南アジアにおける紛争に深く関係することに積極的ではなかった。結果的にアメリカは8月にはチベットにインドを経由した極秘援助を伝え、チベット政府はこれを承諾した。
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