平氏都落ちとは? わかりやすく解説

平氏都落ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:57 UTC 版)

法住寺合戦」の記事における「平氏都落ち」の解説

寿永2年1183年7月に入ると、義仲・行家軍が入京可能性現実味帯び7月25日安徳天皇後白河法皇御所がある法住寺殿行幸することとなった。ところが、後白河自身その日のうちに比叡山避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛京都脱出決意平清経時忠命じて天皇及び摂政近衛基通剣璽京都から連れ出すように命じた天皇剣璽六波羅平氏一門合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院隠棲していた平信範時忠叔父)の下に逃れた平氏以外の公卿のほとんどが、臨時法皇御所となった比叡山円融房に参集し26日には対策会議開かれた後白河平氏追討意向示したが、天皇剣璽返還優先すべきとする公卿もおり、とりあえ和戦両面模索することとなり、平氏勢力の撤退確認され27日になって後白河法住寺殿帰還した

※この「平氏都落ち」の解説は、「法住寺合戦」の解説の一部です。
「平氏都落ち」を含む「法住寺合戦」の記事については、「法住寺合戦」の概要を参照ください。

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