たいら‐の‐むねもり〔たひら‐〕【平宗盛】
平宗盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 06:18 UTC 版)
平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・貴族・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院(平徳子)は同母妹である。官位は従一位行内大臣。平氏政権の惣管。通称は屋島大臣など。
注釈
- ^ これは左大史・小槻隆職が左少弁・藤原行隆から聞いた内密の話を、隆職が兼実の邸を訪問した際に語ったものである。「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」は清盛の発言とするのが一般的な解釈であるが、この発言の前に「行隆を召し仰せて云はく」という記述がある。その丁寧な語法から、行隆を召してこの発言をしたのは後白河法皇であるという説もある[18]。
- ^ 『玉葉』寿永2年6月5日条は、北陸追討軍を4万余騎とする。
- ^ 『玉葉』寿永2年7月21日条は、1,080騎とする。資盛の出撃は宗盛の命令ではなく、後白河法皇の宣旨によるもので、後白河法皇は資盛を密かに見送っている。後白河法皇と小松家の関係の深さを表すものといえる。
- ^ 女系では宗盛の娘が平通盛(宗盛の父清盛の異母弟平教盛の嫡男、宗盛の従弟)に嫁ぎ、通衡を生んでいる。外孫・通衡は後に出家している(没年は不明)。なお、「鶴岡八幡宮供養次第」によると鎌倉幕府第3代将軍源実朝暗殺の際に嫌疑をかけられた教盛の孫とされる僧がいるが、出家した通衡か教盛の別の孫なのかは不明。いずれにせよ、現段階で通衡が記録上では宗盛最後の直系子孫となる。
出典
- ^ 『兵範記』同日条
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『山槐記』応保元年11月18日条
- ^ 『兵範記』仁安元年11月13日条
- ^ 『兵範記』嘉応元年12月23日条
- ^ 『玉葉』同日条
- ^ 『玉葉』治承3年11月14日条
- ^ 『玉葉』治承4年5月21日条
- ^ 『玉葉』治承4年5月22日条
- ^ 『玉葉』治承4年8月12日条
- ^ 『玉葉』治承4年11月5日条
- ^ 『吉記』治承4年11月12日条
- ^ 『玉葉』治承4年12月14日条
- ^ 『玉葉』治承4年12月16日条
- ^ 『玉葉』治承5年2月26日条
- ^ 『玉葉』閏2月1日条
- ^ 『玉葉』治承5年閏2月5日条
- ^ 高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社、2007年
- ^ 『玉葉』治承5年閏2月6日条
- ^ 『玉葉』治承5年閏2月7日条
- ^ a b c 『吉記』同日条
- ^ 『玉葉』治承5年3月28日条
- ^ 『玉葉』治承5年7月1日条
- ^ 『玉葉』養和元年7月24日条
- ^ 『玉葉』養和元年8月1日条
- ^ a b c 『百錬抄』
- ^ 『玉葉』養和元年8月15日条
- ^ 『吉記』養和元年9月10日条
- ^ 『玉葉』養和元年9月12日条
- ^ 『玉葉』養和元年9月6日条
- ^ 『玉葉』養和元年10月10日条
- ^ 『吉記』養和元年11月20日条
- ^ a b c d 『吉記』
- ^ 『明月記』
- ^ 『玉葉』養和2年3月9日条
- ^ 『玉葉』養和2年3月12日条
- ^ a b 『玉葉』
- ^ a b 『百錬抄』『玉葉』『吉記』
- ^ 『吉記』寿永2年2月21日条
- ^ 『玉葉』寿永2年4月14日条
- ^ 『玉葉』寿永2年5月16日条
- ^ 『吉記』同日条、『玉葉』寿永2年6月9日条
- ^ 『吉記』寿永2年6月18日条
- ^ 『吉記』寿永2年6月29日条
- ^ 『百錬抄』7月8日条、『吉記』7月12日条
- ^ 『吉記』寿永2年7月10日条
- ^ a b 『吉記』寿永2年7月16日条
- ^ 『吉記』寿永2年7月21日条
- ^ 『玉葉』寿永2年7月22日条、『吉記』同7月24日条
- ^ 『吉記』寿永2年7月24日条
- ^ 『玉葉』養和元年9月19日、29日条
- ^ 『愚管抄』
- ^ 『吉記』寿永2年7月25日条
- ^ 『玉葉』寿永2年11月14日条
- ^ 『玉葉』寿永2年9月21日条
- ^ 『玉葉』寿永2年閏10月2日条
- ^ 『玉葉』寿永2年閏10月21日条
- ^ 『玉葉』寿永2年12月2日条
- ^ 『玉葉』寿永2年11月27日条
- ^ 『玉葉』寿永3年正月9日条
- ^ 『玉葉』寿永3年正月13日条
- ^ 『百錬抄』寿永3年正月8日条
- ^ 『百錬抄』寿永3年正月29日条、『玉葉』同2月1日条
- ^ 『玉葉』寿永3年2月8日条
- ^ 『玉葉』2月10日条
- ^ 『吾妻鏡』寿永3年2月20日
- ^ 『玉葉』寿永3年2月19日条
- ^ 『玉葉』寿永3年2月29日条
- ^ 『玉葉』寿永3年3月10日条
- ^ 『玉葉』『百錬抄』『吾妻鏡』同日条
- ^ 『玉葉』同日条
- ^ 平宗盛 斬首の地に「首洗い池」 野洲大篠原 地元住民ら復元『京都新聞』2021年(令和3年)6月15日朝刊、滋賀版25面
- ^ 元木泰雄「平重盛論」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収
- ^ a b c d 『平家物語』
- ^ a b 『源平盛衰記』
平宗盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 22:06 UTC 版)
「破戒王〜おれの牛若〜」の記事における「平宗盛」の解説
平清盛の三男。出来が悪く、甘やかされて育った。女性を宗から輸入したワニやトラに食べさせて楽しむ等、非常に残虐な性格。
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平宗盛
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清盛の三男。清盛の死後、兄達が早逝していたことから跡を継ぎ平氏一門の総帥となる。が、その器量は甚だ凡庸で、清盛の実子ではないという噂を立てられるほどの愚物。屋島の戦いでは、わずか百数十騎の義経の部隊を数万の大軍と見誤って本営を放棄し、平氏水軍の一大拠点を失うという愚にもつかぬ失態を犯した。
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平宗盛(たいらのむねもり)
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「神戸・清盛隊」の記事における「平宗盛(たいらのむねもり)」の解説
清盛の三男。「青」イケメン担当。モデルのような風貌。女性好き。口上『愛を貫く平家の武将、神戸・清盛隊イケメン担当、平 宗盛なり!』掛け声「イケメン」
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平宗盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 06:21 UTC 版)
清盛の三男で、清盛亡き後の平家の棟梁。常に公家風の厚化粧をしている。清盛に比べて器量がなく、京が危うくなると早々に都落ちを決定してしまい、合戦の指揮も弟たちに任せるなど無能な面が目立つ。壇ノ浦の戦いでは敗北が決まった際に自決しようとするも躊躇してなかなか入水できずにいたところを盛によって捕らえられてしまう。捕虜になったあとは義経に媚びて命乞いをするも頼朝によって処刑を命じられ、息子清宗の助命を託し、最期は武家の棟梁らしい態度で処刑された。
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