工事までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 10:22 UTC 版)
丹後半島一の長流である竹野川の水量はつねに豊かであり、その支流である鱒留川、小西川、大糸川、中川などと同様に農業用水に利用されたが、中郡丹波村や矢田村の土地は竹野川よりも水位が高い平坦地で、日照りになると、渇水に悩まされた。さらに、大雨が降ると中郡全域の水が竹野川に集まることから水田が水浸しになってしまい、米の出来が悪くなってしまっていた。このため丹波では、井堰や井溝(用水路)によって数キロメートル上流の隣村地から水を導く必要があり、隣地・荒山の住民と水をめぐって争うこともあった。 1752年(宝暦3年)の『峯山明細記』に記された井堰は、竹野川流域の町内だけで3カ所あり、荒山地内の「丹波郷大井堰」と「吉沢井堰」、丹波郷の「与謝兵衛井堰」が挙げられる。このうちの「丹波郷大井堰」が、「丹波の大溝」として知られる本項である。
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