宋教仁暗殺と突然の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:13 UTC 版)
中華民国成立後の1912年(民国元年)3月、唐紹儀内閣が成立すると、趙秉鈞は内務総長に任命された。しかし、趙は袁の命を受けて反唐運動を展開し、唐を辞職に追い込んでいる。続く陸徴祥内閣でも、趙は内務総長に任命された。同年8月、陸が参議院から弾劾されて辞職すると、趙が代理国務総理となる。9月、正式に国務総理となった(内務総長も兼任)。 当初の趙秉鈞は、中国同盟会から改組された国民党への融和姿勢を示し、比較的順調に内閣を組織することができた。しかし、次第に国民党への対決姿勢を示すようになる。1913年(民国2年)に国民党が選挙に勝利すると、趙は、袁世凱の意を受けて宋教仁暗殺を秘密裏に画策し、そして3月に決行した。しかし、やがて内情が漏れたため、世論の弾劾を受ける形で、同年7月に国務総理を辞職した。その後、歩軍統領兼管京師巡警、北京警備地域司令官などを歴任している。12月には直隷都督に任命された(翌年2月に民政長も兼任)。 1914年(民国3年)2月27日、趙秉鈞は、天津の督署内で急死した。享年56(満55歳)。この死については、袁世凱が宋教仁暗殺の証拠隠滅を図っての毒殺であるとの説も広く信じられているが、確証はない。ただ、趙配下の陸錦による袁宛の電文でも、急性症状による苦悶の果てに、大量出血等により死亡したことが報告されており、少なくとも異状死であったことだけは確かである。1915年(民国4年)12月に袁が皇帝に即位すると、趙は一等忠襄公を追贈された。
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