安直戦争による消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 21:08 UTC 版)
その間にも同9日、第1師、第3師は弾薬の供給を終え、京畿線の南下を開始した。これに第2混成旅を加え、安国軍として安直戦争に参戦した。 第1師は京漢鉄道に沿って保定に向けて進軍し、前線司令部のある高牌店を占領。しかし16日、悪天候の中で第15師と同士討ちとなり、涿州付近に撤退、同地で突撃するも地雷攻撃を受けた。 惨敗を喫した第1師は第1旅旅長は戦死、第2旅旅長は逃亡し瓦解。師長の曲同豊は18日午前に捕虜となり、曹錕に光園で軍刀を献上し帰順、直隷派側に転じる。当時第1師歩兵第3団第2連長であった韓世儒は後年、敗因について、「参戦軍、とりわけ第1師は中・上級軍官は教育畑出身、下級軍官は保定軍校を卒業したばかりで実戦に乏しく、複雑な局面に当たれば適切な処置を欠いた」と回想する。 第2師は山東省を出発後、第5混成旅を撃破し18日に直隷省・徳州を占領したが、主力大敗を聞き、済南に撤収。武装解除を受け、戦後山東陸軍混成第7旅(長:胡翼儒)に縮小、更に1925年、奉天派・張宗昌が山東省に進出し、帰順を拒んだ胡翼儒ら第7旅は山東督軍を更迭させられた鄭士琦への随行を許可され安徽省に向かう事になったが、5月21日、徳州を経て泰安についたところで(兖州とも)で張の部下の程国瑞によって結局武装解除を受け、奉天派に編入された。同月、惠民で方振武の先遣第2梯隊(王承斌の第23師が李景林に接収させられたもの)と合流して第6旅へと改編、第24師を経て国民軍第5軍、国民革命軍第四十一軍(中国語版)となる。 他の不参加部隊も一部は西北に逃れようとしたが、結局各地で武装解除された。将来的に安徽派の中核を担うはずだった若手軍官らは直隷派、奉天派、あるいは孫文の広州政府に散らばった。こうして西北辺防軍は完全に消滅したが、1923年5月、第1軍軍長・馮玉祥は西北辺防督弁に任ぜられ、第1軍を西北陸軍に改称した。翌1924年10月の北京政変後、馮玉祥は自らを国民軍総司令と称したため西北辺防督弁は廃されたが、1925年1月13日、馮玉祥は察哈爾省張家口市にて西北辺防督弁に再就任し、国民軍は西北辺防軍の名を継承した。この事から、国民軍は西北軍とも呼ばれる。
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