学歴と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 04:28 UTC 版)
辰口・ポール・信夫は広島の中学校を1919年3月16日に卒業し、4年後の1923年3月2日にはトラヴィエ英語アカデミーを卒業した。彼はアメリカのカリフォルニア州に渡り、パシフィックユニオン大学に1929年に入学、1932年に卒業した。1932年に両親ともが不意に亡くなってしまい、彼は家族の雑事を片付けるために一旦帰国した。1933年に彼は再びカリフォルニアに戻ると、ロマリンダ大学の医療伝道者カレッジに入学、1937年6月に同大学を卒業した。卒業後はロサンゼルスのホワイト記念病院(英語版)で一年間インターンとして働いた。アメリカ留学中、辰口はクラスメイトから「タッツィー(Tatsy)」またはポールと呼ばれていた。クラスメイト達からは真面目な学生であり、社交的ではないものの親しみやすいとみなされていたという。ロマリンダ大学で辰口の1年後輩だった J. Mudry は、後に次のように語っている。「彼のことはよく知っていました。辰口のことは - 私たちはポールと呼んでいましたが - まったくアメリカ人だといつも思っていました。」 1938年9月、辰口はDoctor of Medicineの学位とカリフォルニア州の医師免許を取得した。1939年、彼は東京のアドベンチスト教会の東京衛生病院で働き口を得た。その病院は、彼の父も設立に関わったところだった。東京で結核患者の治療に当たる予定だったが、彼は大学院でのさらなる研究のために数ヶ月間カリフォルニアで過ごしている。同じ1938年には、辰口は幼馴染であるミヤケタエコ(耐子)と結婚した。耐子の両親はアドベンチスト教会の宣教師としてハワイのホノルルに住んでおり、耐子は留学のためにカリフォルニア州に住んでいた。夫婦は1939年にアメリカを去り日本へ帰ってきた。
※この「学歴と結婚」の解説は、「辰口信夫」の解説の一部です。
「学歴と結婚」を含む「辰口信夫」の記事については、「辰口信夫」の概要を参照ください。
- 学歴と結婚のページへのリンク