姚興の部将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 18:11 UTC 版)
後秦の皇帝の姚興は勃勃の容姿や才に心酔して驍騎将軍・奉車都尉・安遠将軍・陽川侯に封ぜた。また安北将軍に昇り、五原公に改封され、三交五部の鮮卑及び雑虜二万余落を統括して朔方郡に鎮した。当初、姚邕は勃勃を信任することを警戒して反対していたので姚興も遠慮していたが、やがては北魏に備えるためにも勃勃を封じた。なお、姚興から天興2年(399年)に勃勃の弟の劉文陳は北魏へ降り、宿六斤氏を賜っている。 407年、敗北を重ねていた姚興は北魏と和平を結んだが、北魏に父(劉衛辰)を殺されている勃勃はこれに怒って造反した。勃勃は後秦に八千頭の馬を献じに来た柔然の丘豆伐可汗の使者を襲って拘束し、高平の没弈干を殺してその部衆を併せ、衆が数万に至ると同年6月、夏后の子孫を名乗り、大夏天王・大単于と称して国号を大夏に定め、龍昇と建元した。
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