太平洋横断無着陸飛行計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 04:25 UTC 版)
「後藤勇吉」の記事における「太平洋横断無着陸飛行計画」の解説
1927年(昭和2年)、リンドバーグの大西洋横断単独無着陸飛行に刺激された帝国飛行協会は、国産機(川西のK-12長距離機「桜号」)による太平洋横断無着陸飛行計画を立て、4人の飛行士(後藤勇吉・藤本照男・海江田信武・諏訪宇一)を選抜、後藤が操縦士監督に任命された。4人の飛行士は霞ヶ浦海軍航空隊に入隊して飛行訓練を積むこととなった。 1928年(昭和3年)2月28日、後藤勇吉が操縦し、諏訪宇一および岡村徳長海軍大尉が同乗する一三式艦上攻撃機は、霞ヶ浦 - 大村(大村海軍航空隊)間往復訓練飛行のために出発した。2月29日、大村から霞ヶ浦の復路に諏訪飛行士の操縦で飛び立った機は、悪天候の中、佐賀県藤津郡七浦村(現:鹿島市)の多良岳山中に墜落した。諏訪・岡村は火傷を負いながら脱出に成功したが、後藤は死亡した。享年33(満31歳)。 後藤の死により、太平洋横断無着陸飛行計画は中止となった。
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