天狗芸術論
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『天狗芸術論』(てんぐげいじゅつろん)は、佚斎樗山(本名丹波忠明、1659 - 1741年)著の談義本(戯作の一)『田舎荘子』(享保12年(1727年刊)内の一話であり、剣術書(厳密には精神面を説いた書)。全4巻。題名にある「芸術」とは、「武芸と心術」(本来は、技芸と学術)の意[1]。
注釈
- ^ 「芸術論後(最後のくだり)」においても、そのことを指摘されたとしつつ、達人に精神面を聞き、自分で実際に試して工夫したことを読み物としてまとめたことが記されている。
- ^ 当著に「学術は気(心)を明らかにするために重要」と記され、心身を自在に働かせる上で必要とされる。巻之二に、大学(儒書)で心術を身につけると記される他、巻之三に、学術により具わった知性を明らかにして濁気を除くと記す。
- ^ 当著の巻之一「大意」の時点から、儒学の重要性を説く他、3人目の天狗が四端説を説明し(要約のため、「物語」には記述していない)、巻之二では大学(儒書)によって心術を身につけた記し、巻之三の「先」を「浩然の気」と関連付けて説明している(同巻之三で説く、良知とは儒教で説く致良知)。また、剣術の極則を、道教の「闘鶏の論」がこれにあたるとする。
- ^ 2人目の天狗が語るところから『不動智神妙録』と同様の、心が捉われることをよしとしない思想が記述される他、巻之二の輪廻、巻之三では、意・識、巻之四では、熱湯を飲むなど仏教用語が見られる。
- ^ 巻之三の意・識など。
- ^ 巻之一の仏僧は死に動じないが、生の役には立たないとしている点や巻之二の輪廻を恐れているなど、仏教と比較して儒教の有用性を説く記述が見られる他、巻之三では異学の徒といえども聖人の別派と認識して記している。
- ^ 原文では、「わざ」は一貫して「事」の字があてられている。
- ^ 『不動智神妙録』の「無明住地煩悩」に、どう打ってくるかなどといった意識することの害を説き、「諸仏不動智」には、初めて刀をもった者は構えに心を捉われていないなど、素人に対する迷いのなさを指摘している点で同じである。
- ^ 同著者の『猫の妙術』においても同じことが語られる。
- ^ 寺見流など天狗を祖とする流派が見られる。なお寛政12年の『桂林漫禄』では、「天狗に会って剣術を授かるというのは虚誕の説なり」として、京八流や義経の剣術は天狗とは関係ないとする考えはすでにあった。
- ^ 一刀流では「切り落とし」、新陰流では「三覚円の太刀」、新当流では「一の太刀」と、「基本が極意であり、極意が基本」とされ、基本を修得することが極意に繋がったため、秘する必要性がない。参考・『月刊剣道日本 1980年 特集 不動智神妙録』 p.82.また、二天一流の兵書『五輪書』風之巻においても、「真剣において、初歩と奥義を使い分けたりしない」と記述されている。
- ^ 火が心で、薪が気の例え。
出典
- 1 天狗芸術論とは
- 2 天狗芸術論の概要
- 3 参考文献
- 天狗芸術論のページへのリンク