大黒長左衛門家の断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/11 17:31 UTC 版)
分一銀による収入の減少した銀座を世襲した江戸八代目長左衛門常房は納滞銀として金に換算して3900両余の不納を咎められ、寛政11年4月(1799年)頃より取調べをうけた。 寛政12年7月2日(1800年)に長左衛門常房と京家十代目作右衛門常明は勘定奉行柳生久通宅へ出頭するよう命じられ、常房の息子常隣を連れて出頭した。ここで長左衛門常房は家職召放しの上、永蟄居を命ぜられた。一方、作右衛門常明はお咎めなしであったが取締り方に付不束であったとして急度御叱を受けた。 この後、京橋銀座にあった長左衛門家の御用道具、家作共に召し上げとなり作右衛門常明に与えられ、作右衛門は京都および京橋から機能を集約された蛎殻町の銀座を継ぐこととなった。
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