土佐一条氏
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土佐一条氏(とさ いちじょうし)は、戦国時代に土佐国に土着した公家一条家の庶流[1]。戦国時代のうちに長宗我部氏により滅ぼされたが、明治に入って一条公爵家の分家として再興され、華族の男爵位を与えられた[2]。本姓は藤原氏。家紋は「一条藤」。
- ^ “中世土佐一条氏関係の史料収集および遺跡調査とその基礎的研究 (KAKENHI-PROJECT-14510365)”. 2021年8月21日閲覧。
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- ^ 世界大百科事典 第2版『三国司家』 - コトバンク
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- ^ 朝倉慶景「天正時代初期の土佐一条氏(上)」『土佐史談』166号、1984年。
- ^ 朝倉慶景「天正時代初期の土佐一条氏(中)」『土佐史談』167号、1985年。
- ^ 朝倉慶景「天正時代初期の土佐一条氏(下)」『土佐史談』172号、1986年。
- ^ 朝倉慶景「天正時代初期の土佐一条氏―いわゆる渡川合戦―(下の2)」『土佐史談』175号、1987年。
- ^ 石野弥栄 著「戦国期南伊予の在地領主と土佐一条氏」、市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年。
- ^ 秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面―土佐一条家との関係(御所体制)をめぐって―」『土佐史談』215号、2000年。
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 589.
- ^ 中村市史編纂室編『中村市史 正編』1969年、227頁。
- ^ 『天文日記』天文6年12月24日、同7年正月17日・2月5日各条
- ^ 宮地啓介 著「仁淀川下流における土佐一条氏の動向」、市村高男 編『中世土佐の世界と一条氏』高志書院、2010年。
- ^ 赤坂恒明「永禄六年の『補略』について : 戦国期の所謂「公家大名(在国公家領主)」に関する記載を中心に」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第11巻、埼玉学園大学、2011年12月、326(43)-311(58)、CRID 1050282812975072256、ISSN 13470515。
- ^ 市村高男編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院、2010年8月)
- 1 土佐一条氏とは
- 2 土佐一条氏の概要
- 3 小京都中村
- 4 家臣
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