国務大臣として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 23:19 UTC 版)
「ギヨーム・デュボワ」の記事における「国務大臣として」の解説
1715年にオルレアン公が摂政に任命されると、それまで数年間オルレアン公の秘書を務めてきたデュボワも国務大臣に任命され、実際の権力も徐々にデュボワの手に移された。 デュボワの政策は常にユトレヒトの和約の維持を目的とし、スペインのジュリオ・アルベローニ(英語版)枢機卿の陰謀とは対立することとなった。デュボワはアルベローニに対抗すべく、グレートブリテン王国との同盟を主張し、反対にも遭ったものの1716年の英仏同盟、1717年の三国同盟、1718年の四国同盟締結に成功した。1719年には四国同盟戦争の一環として、ベリック公率いるフランス軍をスペインに派遣、スペイン王フェリペ5世にアルベローニ罷免を迫ることに成功した。それ以外では平和政策をとったが、デュボワの政策が成功を収めたため、彼は宮廷で反対されたにもかかわらず地位を確立した。また1718年のチェッラマーレ陰謀(英語版)にも関与した。 デュボワはオルレアン公にフランスで最も裕福だったカンブレー大司教領(フランス語版)を求め、イギリス国王ジョージ1世もそれを支持したためオルレアン公は折れて承諾した。デュボワは続いて枢機卿の座を求め、ローマ教皇クレメンス11世との長い交渉ののち1721年にインノケンティウス13世により枢機卿に叙された。ただし、インノケンティウス13世の教皇選出にあたってデュボワが多額の賄賂をし、フランスからの800万フランの支出となったという。翌1722年8月にフランス首相に任命され、直後にアカデミー・フランセーズ会員に選出された。 デュボワは1723年にルイ15世が成人した後も首相に留まり、カンブレー大司教領と7つの修道院から莫大な資産を蓄財したが、健康を害して手術を受けなければならず、直後の1723年8月10日にヴェルサイユで死去した。 死去から数十年後の1789年、Vie privée du Cardinal Dubois(『デュボワ枢機卿の私生活』)が出版され、1815年にはMémoires secrets et correspondance inédite(『秘密の回想録と未出版の通信』)が出版された。
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