国共対立と文化大革命の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 05:19 UTC 版)
「一二・三事件」の記事における「国共対立と文化大革命の影響」の解説
長年マカオを統治してきていたポルトガルは、当時から反共主義のアントニオ・サラザール政権下において中華民国と良好な関係を持っており、また中華民国も対立を続ける中華人民共和国との関係上、マカオの返還をポルトガルに対して正式には求めていなかった。この様な関係を受けて、中華民国の情報機関はマカオを拠点に中華人民共和国への工作活動を活発に行っていた。これに対して隣接する中華人民共和国も、地の利を生かして中華民国の情報機関に対する工作活動を行っていた。 なお当時のマカオにおいては中華民国の中国国民党支持者と、中華人民共和国の中国共産党支持者の住人が両方ともおり、1950年代以降、両者の対立が次第に深まっていった。毎年10月になると、共産党支持者は1日に中華人民共和国国慶節を、国民党支持者は10日に中華民国双十節を祝っていた。そして互いに相手の祝賀行事を忌々しく感じており、双方による行事を妨害するトラブルが頻発していた。 さらに1960年代中盤以降に中華人民共和国で巻き起こった文化大革命と、それに伴う同国による諸外国と中華民国に対する過激化した対立姿勢は、マカオの中国共産党系住人にも伝達し、1966年に入ると中国共産党系の住人とマカオ政庁、中国国民党系の住人との暴力を伴う対立は日を増して増加していった。
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