回心と独学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 07:26 UTC 版)
ラモンはまだ若い男であり、マヨルカ王国の執事長を務めていた。むなしい歌や詩を制作し、不道徳にふけっていた。ある夜、彼はベッドの横に座り、愚かな愛を与えた女に対して低俗な歌を書いていた。彼が歌を書きはじめた時、十字架にかけられた我らの主イエス・キリストが右手に見え、まるで空中に浮遊しているかのようだった。 — 自伝『Vita coaetanea』 30歳頃の1263年には宗教的な啓示を受け、この時の様子を後に自伝『Vita coaetanea』に書いている。リュイは計6回の啓示を受け、神に仕える生活を追求するために家族・地位・所有資産を手放す決心を下した。具体的には、リュイは以下の3点を企てた。 主に全身全霊を捧げるために、サラセン人(イスラーム教徒)をカトリック信仰に改宗させ、そのためには死をも辞さない 異教徒の誤謬を論駁するためにこの世で最高の書物を著す 異教徒の地でカトリック信仰の真理を宣教する宣教師のために、外国語教育を目的とした修道院の設立を促進する 1265年にはイベリア半島北西部のガリシア地方にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの聖地巡礼を行った。その帰路でアラゴン=カタルーニャ連合王国の中心都市であるバルセロナに立ち寄り、フランスのパリに出て学問を修める決意を固めたが、家族やドミニコ会司祭の助言で断念し、マヨルカ島に戻った。わずかな財産を妻子に残すと、それ以外の全財産を処分。マヨルカ島でラテン語、自由学芸(自由七科)、神学、哲学などを独学し、約9年に渡ってムーア人の奴隷からアラビア語とアラビア文化を学んだ。
※この「回心と独学」の解説は、「ラモン・リュイ」の解説の一部です。
「回心と独学」を含む「ラモン・リュイ」の記事については、「ラモン・リュイ」の概要を参照ください。
- 回心と独学のページへのリンク