喜連川塩谷氏の系譜における惟頼
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「塩谷惟頼」の記事における「喜連川塩谷氏の系譜における惟頼」の解説
喜連川塩谷氏の系譜においても、惟頼は源姓塩谷氏の三代目に当たるが、先に説明した史実とは全く異なることが記されている。 塩谷少将伯耆守奥州関八洲国司伯耆権現之也、人皇七十七代後白河院御宇ニ也人皇七十九代六条院御宇ニ平清盛ニ国司職ヲサイラル塩谷ニ住居ス。治承二年(1178年)九月九日卒木幡ニ塩谷大明神創立ス。 このように記されているが、塩谷氏が伯耆守の官途を名乗るのは、重興塩谷氏(15世紀)の時代になってからであり、惟頼が治承2年に亡くなったとする点も史実とは合わないので、この記述は信頼することが出来ない。但し、惟頼の父惟純と錯誤している可能性もあり、記述の全てを虚偽として片付けることも出来ない。 ちなみに、喜連川塩谷系譜では、惟頼には、正義、頼房、義房の3人の男子がいるとされており、弟である惟広は、正義の次男、惟頼の孫となっている。
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