呉服町の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:07 UTC 版)
「呉服町 (鹿児島市)」の記事における「呉服町の成立」の解説
江戸時代には鹿児島城下下町のうちであった。宝暦年間の「通昭録巻七」によれば、下町十一町のうちとして呉服町が掲載されている。天保年間に編纂された「天保切絵図」には中町に続く南北の筋に呉服町と記載されている。 明治時代初期の新町は平民が多く住んでおり、町人街であった。また、呉服町の商業戸数は130戸あり、小間物、洋物、生魚仲買があった。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では呉服町を火元として200戸余りが焼失した。
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