同盟の成立と目的
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:46 UTC 版)
条約はロシアの外交官ニキータ・イヴァノヴィチ・パーニンによるものだった。同盟は七年戦争における二国間の講和条約である1762年のサンクトペテルブルク条約を拡張した。1764年4月11日に締結されたこの条約はロシア政治における「北方システム」、すなわちロシア、プロイセン、グレートブリテン王国の間の同盟の基礎となった。当時、英普同盟は崩壊したが、グレートブリテンとロシアの関係は改善しており、1766年には貿易の同盟が結成された。 同盟は防御同盟であり、両国はお互いの領土の安定を守ることを宣言した。プロイセンにとって、これは国際関係において最も危険な敵を同盟国に変えることであり、大事な安定感を与えた。同盟はハプスブルク帝国(オーストリア)への対抗という一面もあった。ロシアの視点からは、オーストリアはロシアの勢力範囲の拡大においてあまり譲歩に前向きではなく、同盟者としての価値がプロイセンより低かった。歴史家の一部は、ロシアが同盟を主導することで、七年戦争の目的であったプロイセンに対する影響力の拡大を達成することができた、と主張したが、ロシアがプロイセンを格下の同盟国として扱ったにもかかわらず、同盟はプロイセンの外交上の勝利であるとする歴史家もいる。プロイセン王フリードリヒ2世は死の直前、露普同盟が彼の締結した条約のうち、一番有益な条約であると述べた。 条約の重要な条項の1つは、両国が協同してヴェッティン家(ザクセン選帝侯の一族)がポーランド・リトアニア共和国の国王自由選挙で三たび当選することを阻止する、というものだった。両国は同年の国王選挙(英語版)でスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを支持、当選させた。条約はポーランドで両国の許可を得ていない改革が行われた場合、介入を許す条項を含む。実際、両国はオーストリアとともにバール連盟戦争に介入、1772年の第一次ポーランド分割(英語版)を起こした。
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