合衆国の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 03:36 UTC 版)
合衆国は、反乱の鎮圧のため即座に動いた。ジェシー・I・モリン大尉によるモラの戦い(モラ最初の戦い(英語版)モラ第二の戦い(英語版))で反乱者が敗れるまでの間、プライス大佐率いる300名以上の米軍が、ベント知事のビジネスパートナーのセラン・セント・ブラインが組織したおよそ65名の志願兵(数名のニューメキシコ人を含む)と共に、サンタフェからタオスに向かった。途中、カニャダの戦いとエンブド峠の戦い(w:Battle of Embudo Pass)において1,500名のメキシコ人とインディアンを打ち負かした。暴徒らはタオス・プエブロに撤退し、そこで分厚い壁のアドベの教会に籠城した。教会への集中砲火によって、150名の反乱者が殺され、400名以上が捕らえられた。 プライスは戒厳令の下、タオスに裁判所を設置し、捕らえた暴徒を裁判にかけた。裁判は15日間行われ、15名に殺人罪と反逆罪で死刑の判決を下した。4月9日、6名の告発された暴徒はタオスのプラザで絞首刑に処され、2週間後には別の5名が処刑された。一年後アメリカ合衆国最高裁判所は、この判決に同意した。他のすべての有罪判決は控訴審を棄却され、全部で少なくとも28名がタオスで処刑された。
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