司令官解任と晩年とは? わかりやすく解説

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司令官解任と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:18 UTC 版)

ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の記事における「司令官解任と晩年」の解説

マールバラ続いてフランス領アルトワ丘陵フランドルの諸要塞攻略かかったが、翌1710年2つ事件から彼の立場劇的に悪化したこの年アン女王サラ対立決定的となって女王サラ宮廷から追放しホイッグ党選挙敗れて戦争推進してきた大蔵卿ゴドルフィン政権から滑り落ちかわってロバート・ハーレー、ヘンリー・シンジョンらが率いトーリー党政権についた新政権これまで取り調べ免れていたマールバラによる軍事費着服疑惑調査開始し1711年12月21日オーストリアからイギリス支払われ軍資金数万ポンドマールバラによって横領されていたことが報告された。これによりマールバラ29日最高司令官の座を失い、まもなく和平交渉開始された。 イギリスに帰国した後もトーリー党からの弾劾続き、翌1712年12月1日ネーデルラントオステンド亡命サラとも合流してアントウェルペンマーストリヒトフランクフルトなど転々としながらヨーロッパにおける活躍ら行先々民衆歓迎された。1713年4月11日ユトレヒト条約結ばれ戦争フランス体面を保たせつつもヨーロッパ大陸によるその覇権大きく傷つける結果終わったが、最大功労者であるマールバラは既に権力失っていた。 1714年アン女王死去し遠縁ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として即位ハーレートーリー党失脚してホイッグ党復権したことによって、マールバラ8月1日イギリスに帰国してジョージ1世好意大将軍兵站部総監地位復帰したが、もはや名目上役職でしかなかった。マールバラ1704年ブレンハイム戦勝恩賞としてアン女王から与えられ領地にこもり、1705年着工したブレナム宮殿建設専念した宮殿マールバラ生前には完成せず、完成1725年でかかることになる。 1722年6月16日72歳ウィンザーのウィンザー・ロッジ(後のカンバーランド・ロッジ、en)で死去遺骸ウェストミンスター寺院葬られた。後に未亡人となったサラによってブレナム宮殿チャペル夫妻墓地設けられ遺骸はそこに改葬されて現在に至っている。

※この「司令官解任と晩年」の解説は、「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の解説の一部です。
「司令官解任と晩年」を含む「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の記事については、「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の概要を参照ください。

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