原爆病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 09:03 UTC 版)
「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」の記事における「原爆病院」の解説
1950年代、原爆の後遺症に悩む被爆者は未だ多かった。佐々木禎子も日赤病院に入院していたが1955年(昭和30年)死去している。 1954年(昭和29年)第五福竜丸被災を機に、全国で被爆に対する関心は大いに高まった。そこで日赤は被爆者医療に特化した原爆病院を広島と長崎に設立することを決め、1955年(昭和30年)計画を発表する。ただ同時期に広島原爆障害対策協議会が治療センター建設構想を持っていたことから、厚生省・日赤・原対協など関係機関で折衝が行われた。そこで病院は日赤病院と同じ敷地に置き医師を兼務するなど管理は日赤、運営は市と原対協が行う独立した病院とすることが決まり、1956年(昭和31年)「日本赤十字社広島原爆病院」が開院した。 当時の原爆病院で起こった悲劇を元に1966年(昭和41年)蔵原惟繕監督映画『愛と死の記録』が作られている。 原爆病院は被爆医療の中枢を担った。その使命から時には採算を度外視した医療活動を行い研究部門は無収入で、被爆者の高齢化に伴い外来患者は減少しベットの回転率が悪化していたことから、原爆病院のみでは経営は悪化していた。こうした中で病院の老朽化に伴い改築することになり、それに日赤病院との経営の一本化が進められ、1988年(昭和63年)新病棟を建て合併して「広島赤十字・原爆病院」と改称した。
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