原爆獲得工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/31 15:54 UTC 版)
「ナウム・エイチンゴン」の記事における「原爆獲得工作」の解説
パーヴェル・スドプラートフが率いる「核スパイ」問題に従事する特殊部署、С部(エスグループ、スドプラートフ部とも)が創設された時、エイチンゴンは、その第一次長となり、核物理学者と諜報機関の協力の組織に貢献した。更にブルガリアのウラン鉱山のコントロールに関する作戦にも参加した。1945年2月、ロドプス山地に高品質のウラン鉱山が見つかったとの情報が入り、そのウランは、ソ連最初の原子炉に利用された。その後、ソ連国内では、より大きく、高品質なウラン鉱山が見つかったが、この事実を隠蔽し、ブルガリアのウランが必須であるとの印象をアメリカ人に与えるために、エイチンゴンは、広範な偽情報を流布し、アメリカ国防総省を誤認に導いた。同時に、純粋な諜報業務にも従事し続けた。 1946年~1947年、ルドルフ・アベル(ウィリアム・フィッシャー)の出国準備を指揮。1947年2月から「DR」(破壊工作)課副課長、1950年9月から国家保安省(MGB)国外破壊工作業務局長として働いた。1951年10月、ユダヤ人であった彼は、他の多くのMGB職員と同様に、いわゆる「MGBにおけるシオニストの陰謀事件」で逮捕された。 スターリンの死後、1953年3月、彼は釈放され、国家保安機関に復帰した。同年5月、ソ連内務省第9課(諜報・破壊工作)副課長に任命。同年7月、「ベリヤ事件」関連で再逮捕。1957年、懲役12年の判決を受け、ウラジーミル刑務所に収監。1964年に釈放され、1965年からは、多彩な語学力を買われて「外文出版部」の上級編集委員として働いた。1981年に81歳で死去、1992年4月になって初めて死後の名誉回復。 戦勝55周年の2000年5月、エイチンゴンが過去受章したレーニン勲章、2等スヴォーロフ勲章、アレクサンドル・ネフスキー勲章(ロシア語版)、赤旗勲章2個、その他多くのメダルが、彼の子息達に返還された。
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