南満洲鉄道の歴史とは? わかりやすく解説

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南満洲鉄道の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 08:07 UTC 版)

南満洲鉄道の歴史(みなみまんしゅうてつどうのれきし)では、日露戦争の勝利によって日本ロシアから獲得した満洲南部の鉄道とその付属事業を経営するために設立された半官半民の国策会社南満洲鉄道(略称:「満鉄」)の消長について説明する。


注釈

  1. ^ 中国国民党の率いる中華民国は国共内戦に敗北して大陸より放逐された。1949年10月1日には中華人民共和国が大陸地区に建国された[2]
  2. ^ ポーツマス条約の第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた[6]→ 条約本文は「日露講和條約(ウィキソース)」参照。
  3. ^ 「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった[3]
  4. ^ こうした事故の危険性は当然予想されるものであったが、対策は何ら講じられなかった。日本軍が旅順占領を果たしたとき、ロシア軍が所有していた機関車を接収し、そこに装備されていた防寒設備を見習うことを初めて知ったのであった[15]
  5. ^ ロシアと清国の間では旅順・大連租借に関する露清条約(1898年)・満洲に関する露清協定(1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた[13]
  6. ^ マクドナルドの手紙の内容は、以下のようなものであった。「愚見に依レハ現時日本政府ノ取ル政略ハ即チ、露国ト戦争ヲ為シタル際日本ニ同情ヲ寄セ軍費ヲ供給シタル国々ヲ全ク疎隔スル日本ノ自殺的政略ト評スルノ外ナシ」(『日本外交文書』39-1)[19]
  7. ^ 若槻と山座は酒豪としても知られていた[20]
  8. ^ 残りは、東洋拓殖会社や韓国政府への貸付などに投資された[28]
  9. ^ 鈴木良は、この状況を称して「借金帝国主義」と呼んでいる[28]
  10. ^ 「午前8時の男でやろう」とは、要するに若手を起用しようということ。後藤新平は、世間を知った働きざかりの「午後3時」ではなく、経験は浅くても新鮮なやる気に満ちた年代の人を用いることを人事の大方針とした。
  11. ^ 満鉄重役の地位は、このころから政党の利権の対象となりつつあり、政党が植民地企業を支配しようという動きも表面化してきた[44]。朝鮮の東洋拓殖株式会社副総裁にも、このとき、政友会から野田卯太郎が送り込まれている[44]
  12. ^ 河本らの計画は満蒙併合論や独立国家論の類ではなく、現地親日政権を操縦して権益を守ろうとする従来の発想にすぎなかった[59]。また、張学良は奉天督軍顧問の土肥原賢二などからは「親日の権化」とみられていた[60]
  13. ^ 最後の元老西園寺公望は、真相を究明し、犯人を厳しく処罰すべきであるという考えに立っていたものの、牧野伸顕や鈴木貫太郎とは異なり、昭和天皇による問責は、過度に政治的な行為であり、立憲君主主義のあり方から大きく逸脱するもので将来に禍根を残すとしてこれに反対した[62]
  14. ^ 「弐(ニ)キ」とは東条英機星野直樹、「参(三)スケ」とは松岡洋右、鮎川義介岸信介
  15. ^ この間、満洲領有はおろか、独立国家の樹立も絶望的となった石原は急遽、満洲を国際連盟の委任統治下に置くべきだと主張し始め、関東軍内部でも顰蹙を買った[81]。これを機に、関東軍の主導権は板垣征四郎に移り、彼は満洲に門戸開放・機会均等原則を適用して、アメリカ合衆国を範とする独立国家を建設すれば、アメリカとの協調も十分に可能であるとの論を展開していた[81]
  16. ^ 宇垣一成は、朝鮮三・一運動の日に満洲国独立を宣言するのは朝鮮統治に対する配慮を欠いていると自らの日記に記し、憤慨している[86]
  17. ^ 中国の辺境にあって長年日本が勢力圏としてきた満洲とは異なり、上海で事件を起こすことは列強の前で事件を起こすことと同じであった[88]。また、満洲事変での犠牲者は、長期にわたり、きわめて広範囲な作戦を展開しながらも死傷者1,200名ほどであったのに対し、上海事変はわずか1か月あまりで3,000人以上もの死傷者を出した[88]
  18. ^ 内地では「つばめ」が食堂車のみにクーラーを装備していた程度だったので冷暖房完備は前例がなかった[99]。高圧高熱を用いた吸収式冷却方式の空調が採用されたが、これはアメリカの技術であった[99]。二重窓によって砂塵、酷寒、猛暑を遮断できたが、客室の窓はロックされており乗客に窓の操作はできなかった[99]
  19. ^ ウェイトレスにはロシア人女性も雇われていた[99]。テーブルは2人がけ、4人がけのテーブルをそれぞれ6つ配置しており、待合室があって4人分の椅子が容易されていた[99]
  20. ^ 前面上半分の形状には大きな違いはないが、下半分が上から連続的に繋がったスカートのような形態となっており、翼のような飾りといった意匠の変化もある。
  21. ^ これとは別に、チチハル市内だけで通用する「チチハル時間」があり、これはハルビン時間をさらに30分進めたものであった[125]

出典

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