半石半木の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:53 UTC 版)
当時、足羽川は河川敷の北側を流れ、南側には桃林が広がっていた。流れがある北側の47間(約85 m)が木造、南側の41間(約75 m)が石造であった。橋脚は木造部に14基、石造部に31基あり、径間長は木造が石造の約2.5倍ある。 半石半木の構造になったのは、以下の何れかの経緯によるものと言われている。 防衛面での説 福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするため。 土木技術面での説 当時、足羽川は河川敷の北側を流れていたため、石造にすると橋脚の数が多くなり、川の流れを妨げる虞があった。そこで、橋脚の数を減らすべく、木造にした。 水運の便での説 上記のように石造では径間が狭くなるため、舟が通れるように径間を広くとれる構造にした。 経済面での説 洪水が発生した場合、全てが石造であると全壊するおそれがある。そこで水勢の強い北側を木造にすることで、木造部分だけが流されて石造部は無事に残る。半分の木造だけであれば再建が容易である。また、東遊記には「石の所は千載不朽なれば、唯木の所半分の手間にて済む事なれば、別して心やすかるべし。」とある。 石造部の素材には足羽山で採掘された笏谷石が使用された。石材を運ぶには労力を要するので、足羽山から近い南側を石造にしたとする説もある。なお、長さが88間(約160 m)であったことから米橋とも呼ばれていた。
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