元文3年 - 元文5年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 22:30 UTC 版)
「関東地方御用掛」の記事における「元文3年 - 元文5年」の解説
元文3年、武蔵野新田は大凶作に見舞われ、新田出百姓の全1320軒のうち、御救い処置なしでやっていけそうなもの9軒、どうにかやっていけそうなもの26軒というありさまとなる。上坂は大岡の指示を受け、多摩郡押立村に出張し同村の名主・川崎平右衛門と協力して農民の救済に当たる。翌4年に平右衛門は新田世話役に任命され、上坂の配下として武蔵野新田経営を担当。さらに翌5年に上坂から独立して、新田経営を存分に行うよう指示される。平右衛門による在地に密着したきめ細かい農政と、上坂の方針をさらに発展させた資金投入により、新田経営は安定化していく。 元文5年2月23日、田中喜乗が病没。彼の支配地域は勘定奉行の管轄下に移る。
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