元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 23:33 UTC 版)
元のとき、藤州は湖広等処行中書省に属し、鐔津・岑渓の2県を管轄した。 1377年(洪武10年)、明により藤州は廃止され、藤県に降格された。藤県と岑渓県は梧州府に編入された。
※この「元代以降」の解説は、「藤州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「藤州」の記事については、「藤州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 02:24 UTC 版)
1279年(至元16年)、元により恵州は恵州路と改められた。恵州路は江西等処行中書省に属し、帰善・博羅・海豊・河源の4県を管轄した。 1368年(洪武元年)、明により恵州路は恵州府と改められた。恵州府は広東省に属し、直属の帰善・博羅・長寧・永安・海豊・竜川・長楽・興寧の8県と連平州に属する河源・和平の2県、合わせて1州10県を管轄した。 清のとき、恵州府は広東省に属し、帰善・博羅・長寧・永安・海豊・陸豊・竜川の7県と連平州に属する河源・和平の2県、合わせて1州9県を管轄した。 1913年、中華民国により恵州府は廃止された。
※この「元代以降」の解説は、「恵州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「恵州」の記事については、「恵州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 02:48 UTC 版)
1279年(至元16年)、元により潮州は潮州路と改められた。潮州路は江西等処行中書省に属し、録事司と海陽・潮陽・掲陽の3県を管轄した。 1369年(洪武2年)、明により潮州路は潮州府と改められた。潮州府は広東省に属し、海陽・潮陽・掲陽・程郷・饒平・恵来・鎮平・大埔・平遠・普寧・澄海の11県を管轄した。 清代、潮州府は広東省に属し、海陽・豊順・潮陽・掲陽・饒平・恵来・大埔・澄海・普寧の9県と南澳庁を管轄した。 1913年、中華民国により潮州府は廃止された。
※この「元代以降」の解説は、「潮州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「潮州」の記事については、「潮州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 04:00 UTC 版)
1277年(至元14年)、元により辰州は辰州路と改められた。辰州路は湖広等処行中書省に属し、沅陵・辰渓・盧渓・漵浦の4県を管轄した。1364年、朱元璋により辰州路は辰州府と改められた。 明のとき、辰州府は湖広省に属し、直属の沅陵・辰渓・盧渓・漵浦の4県と沅州に属する黔陽・麻陽の2県、合わせて1州6県を管轄した。 清のとき、辰州府は湖南省に属し、沅陵・辰渓・瀘渓・漵浦の4県を管轄した。 1913年、中華民国により辰州府は廃止された。
※この「元代以降」の解説は、「辰州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「辰州」の記事については、「辰州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 07:18 UTC 版)
1279年(至元16年)、元により封州は封州路総管府と改められた。後に封州路は封州の称にもどされた。封州は江西等処行中書省に属し、封川・開建の2県を管轄した。 1369年(洪武2年)、明により封州は廃止され、属県の封川・開建の2県は徳慶州に編入された。
※この「元代以降」の解説は、「封州 (広東省)」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「封州 (広東省)」の記事については、「封州 (広東省)」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 03:27 UTC 版)
元のとき、渠州は順慶路に属し、流江・大竹の2県を管轄した。 1376年(洪武9年)、明により渠州は渠県に降格した。
※この「元代以降」の解説は、「渠州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「渠州」の記事については、「渠州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/12 03:52 UTC 版)
1277年(至元14年)、元により吉州路総管府と改められた。1295年(元貞元年)、吉州路は吉安路と改称された。吉安路は江西等処行中書省に属し、録事司と廬陵・永豊・万安・竜泉・永寧の5県と吉水州・安福州・太和州・永新州の4州を管轄した。1362年、朱元璋により吉安路は吉安府と改められた。
※この「元代以降」の解説は、「吉州 (江西省)」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「吉州 (江西省)」の記事については、「吉州 (江西省)」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 04:24 UTC 版)
元のとき、檀州が再び設置され、大都路に属した。このときの檀州は属県を持たなかった。 1368年(洪武元年)、明により檀州は廃止され、密雲県が置かれた。
※この「元代以降」の解説は、「檀州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「檀州」の記事については、「檀州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 03:03 UTC 版)
1281年(至元18年)、元により貴州は和斜温両投下の食邑所在地とされた。1301年(大徳5年)、宋隆済らが反乱を起こし、知州の張懐徳が戦死した。1305年(大徳9年)に鬱林県が廃止され、貴州は管轄県を持たない散州とされた。貴州の人口は8891戸、20811人あった。 1369年(洪武2年)、明により貴州は貴県に降格された。貴県は潯州府の属県となった。
※この「元代以降」の解説は、「貴州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「貴州」の記事については、「貴州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 08:48 UTC 版)
元のとき、滑州は大名路に属し、白馬・内黄の2県を管轄した。 1369年(洪武2年)、明により白馬県が廃止された。1374年(洪武7年)、滑州は滑県に降格した。滑県と内黄県は大名府に転属した。
※この「元代以降」の解説は、「滑州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「滑州」の記事については、「滑州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 08:52 UTC 版)
元により資州は廃止された。元末の明玉珍が再び資州を置いた。1371年(洪武4年)、明により資州は資県に降格され、成都府に属した。 1727年(雍正5年)、清により資県は資州直隷州に昇格した。資州直隷州は四川省に属し、資陽・内江・仁寿・井研の4県を管轄した。 1912年、中華民国により資州直隷州は廃止され、資中県と改められた。
※この「元代以降」の解説は、「資州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「資州」の記事については、「資州」の概要を参照ください。
元代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 08:52 UTC 版)
潞州がモンゴル帝国に占領されると、再び隆徳府とされた。1231年(太宗3年)、隆徳府は潞州と改められた。元の潞州は晋寧路に属し、上党・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城の7県を管轄した。 1369年(洪武2年)、明により潞州は山西等処行中書省に直属した。1376年(洪武9年)、山西等処承宣布政使司に直属した。1529年(嘉靖8年)、潞州は潞安府に昇格した。潞安府は山西省に属し、長治・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城・平順の8県を管轄した。 清のとき、潞安府は山西省に属し、長治・長子・屯留・襄垣・潞城・壷関・黎城の7県を管轄した。 1913年、中華民国により潞安府は廃止された。
※この「元代以降」の解説は、「潞州」の解説の一部です。
「元代以降」を含む「潞州」の記事については、「潞州」の概要を参照ください。
- 元代以降のページへのリンク