作歌活動
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斎藤は、同郷の土屋文明に師事するアララギ派の歌人としても著名で、土屋の要請に応えてアララギの郷土歌誌『ケノクニ』(毛の国)を1946年に創刊し、亡くなるまでの35年間、1回も休まずに毎月発行し続け(通算421号)、また自身も生涯に3423首の歌を詠んで5冊の歌集を出版した。青年教師だった時代には、「羊歯の葉は谷をうづめて茂り合ひあはれ去年の日もかくて嘆きし」(『羊歯』)というような抒情的な歌が多かったが、校長になってからは「闘ふために短歌も武器とせむ文学になるかならぬかは今は問はず」(『証』)と観じ、「理不尽に執拗に人をおとしめて何をねらうのかこの一群は」(『職場』)のように、彼の教育活動を妨害する輩を痛烈に批判する歌が増えた。創造的・革新的な教育を進めることによって生まれるストレスや鬱屈を、彼は歌で発散させていたと見ることができる。 しかし、臨終の床で詠んだ歌は「今になほうずく心よはるかなるものをみつめて歩み来にけり」「岩つばめはわが窓に来てチチチチと鳴きて行きたり楽しかりけり」(『草と木と人間と』)など、抒情の世界へ回帰するものであった。なお、亡くなる1年前には「斎藤教授学と云はれしものも残りしか残ってもよい残らなくもよい」と詠っている。 斎藤は『ケノクニ』を主宰するだけでなく、朝日新聞群馬版の歌壇の選者も務め、また当時国民病だった結核の療養所にはたいてい短歌のサークルがあって歌誌を発行していたが、斎藤は4つの療養所の歌誌の選者も務めていた。
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